日本哲学
2022年度西田幾多郎哲学講座第1回(企画展「20年間の収蔵品展」)講演
2022年5月21日13:30~16:00 石川県西田幾多郎記念哲学館ホール
哲学館と西田哲学の20年―-人間像と思索の変遷を辿る―
西田幾多郎記念哲学館館長:浅見洋
はじめに
今年度は2002年6月8日に石川県西田幾多郎記念哲学館が開館してから20年になります。私は現在、本館の名誉館長の大橋良介先生と共に、展示室の設計や最初の学芸員の選考等に関わらせていただきました。当時はまだ50歳になったばかりでしたが、あれから20年も経過したのかと、あらためて時の流れの速さに驚いております。ただし、当時勤めておりました、石川県立看護大学が創設三年目で、大学院の設置委員長などを拝命したばかりでしたので、忙しくて、あまり当時のことを思っていました。しかしながら、現在ホワイエで開催されている「20年の歩み展」を準備して下さっているのを横目で見ながら、さまざまなことを思い出しました。その建設の準備会議の中で、かなり時間をかけて議論した覚えがあるのは、石川県西田幾多郎記念哲学館という長い館の名称を付けるに至った経緯です。
まずこの館は「宇ノ気町立西田記念館」という宇ノ気町の方々や先人たちが努力して作り上げて下さった記念館の発展形態なので「記念館」はまず入れなければという話がありました、でも「西田記念館」ではまるで写真館みたいだなあという話があったりして、西田幾多郎というフルネームを入れて「西田幾多郎記念哲学館」にしようということになりました。また、石川県が建設したので石川県というのを頭につけるということになりました。石川県が建設費を負担して建設した建物には2種類の名前があります。石川「県立」というのは石川県立美術館や石川県立歴史博物館のように、県が建設し、また運営するという施設のことで、石川県〇〇というのは本館や石川県九谷焼美術館のような石川県が建設して、運営はそれが立地している自治体に移管した施設のことです。そして、さらに記念館では単なる人物の記念館になってしまう、そうではなくこの館を、哲学者西田幾多郎を記念すると同時に、より広く哲学を普及し、人々が西田という稀有な人物と同時に、哲学に触れていただく館にしたいということが話し合われ、現在のような長い名前になったわけです。
今日はこの石川県西田幾多郎記念哲学館が西田幾多郎という人間に触れ、哲学のオアシス、思索の館を目ざして歩んできたその歩みを辿って見たいと思います。20年という長い時の流れを網羅的に振り返ることはとてもできませんし、その能力もありませんので、この20年間の哲学館と西田哲学の動きを私なりに振り返りながら、そこに見られる西田幾多郎という人物に関する人間像と西田哲学に関する思索の変遷について話して見ようと思います。
Ⅰ.哲学館開館と活動
哲学館が開館したのは2002年6月8日ですから、西田幾多郎の57回目の寸心忌の翌日です。向かって右上はその日のテープカットの写真です。
そして、【石川県西田幾多郎記念哲学館条例第1条】の「設置」という条項では、次のように記されています。
「郷土が生んだ哲学者西田幾多郎の遺徳を顕彰するとともに、哲学に関する情報を集積し、これを発信し、もって哲学の普及及び啓発を図るため、市民の精神修養の場として、哲学館を設置する。」
ここでは哲学館設置の目的はまず①西田幾多郎の遺徳を顕彰、次いで②哲学に関する情報を集積し、これを発信し、もって哲学の普及及び啓発を図る。そして③市民の精神修養の場です。
それに合わせて創設時の事業としては全部ではありませんが、赤や青で書いたようなことを行っています。赤は基本的に「宇ノ気町立西田記念館」の事業を引き継いだもので、青は哲学館創設と同時に始められたもの、緑はその後に開始された主な事業です。資料収集と資料保存、資料展示は博物館の大きな使命ですが、哲学館では現在、西田幾多郎関連の資料は大体3700点ほどを所有しています。イベントしては記念館当時から引き継いだ寸心忌の行事やかけ哲学講座、「点から線へ」の発行を継続するほか、ここ数年は「企画展の開催」、「収蔵品データベース」、『全集 別巻』の他、資料公開と資料研究が増え、哲学館から発信することが多くなっています。
Ⅱ. 哲学館が創設された歴史的背景
次に、この哲学館が生まれた背景の一端に触れておきたいと思います。哲学館が生まれる前の西田哲学の研究状況について、藤田正勝さんが『人間・西田幾多郎 未完の哲学』というこの2020年10月に出た評伝の中で次のように書いておられる文章を紹介します。
戦後、戦前から戦中にかけての日本の哲学について正面から論じることを避ける傾向が生まれた。・・・・ある思想が客観的な評価を受けるためには、ある程度の距離が必 要になる。五〇年という時を経て、ようやく西田や京都学派の哲学を客観的に、あるいは学問的に評価するだけの隔たりが生まれたということができる。筆者が担当した京 都大学の日本哲学史講座が作られたのも、ちょうど戦後五〇年にあたる一九九五年のことである。それ以降、西田や田辺元の哲学は「研究」の対象となったのである。
(藤田正勝『人間・西田幾多郎 未完の哲学』岩波書店、2020、ⅶ)
戦後間もなくして、戦前や戦中の日本文化、哲学、思想を否定的に捉える風潮とともに、京都学派や西田幾多郎をはじめた日本哲学の戦争に対するスタンスを批判的に捉えた主張がかなり多くみられました。そうした状況下で、日本哲学を正面から論じることを避ける傾向が少なからずありました。日本哲学の客観的、学問的な評価が積極的に語られるようになったのは戦後50年頃からだと書かれています。そして戦後50年、西田没後半世紀を経て、ようやく日本哲学が学問的な対象になり、京都大学文学部の日本哲学史講座が創られたのは、まさに戦後50年の1995年だというのが藤田さんの理解です。
とはいえ、哲学研究者の間では西田哲学を研究対象にされることが少ない時代でも、西田没後一貫して旧宇ノ気町では西田幾多郎の顕彰事業が続けられ、読書会や哲学講座が持たれてきた。なかでも1981(昭和56)年の「宇ノ気町立西田記念館」の開館と1982(昭和57)年夏期開放講座を開催が畑氏や役割は大きかったように思う。
この時私は丁度30才で、全く記憶していないのですが、残された資料を見るとこ第1回の書き哲学講座の討論会のアドバイザーになっています。そして、翌年には夏期哲学講座と名前を変え、講師として当時の大学の哲学教師が講師になります。丁度私は31歳で国立石川高専講師として勤め始めて3年目でした。実はどうしてそうなったのかはわからないのですが、錚々たる講師陣の末席に加わっています。今考えると赤面の至りですが、金沢大学大学院での恩師とか大橋良介先生などと一緒に研究会の講師をすることになりました。ただ、それから数年は夏休みはお尻にあせもができるほどに苦労して分科会などの準備をしたことを覚えています。それでも参加の猛者たちに論破されて、ある意味で悔しくてほろ苦い、でも楽しかった記憶が残っています。
その時の参加者の一人で後に後に北海道大学の教授になられた中村重穂(なかむしげほ)さんからこの4月に次のようなメールをいただきました。
あの哲学講座からはその後の西田研究をリードする素晴らしい方々が生まれ、また、それぞれの参加者の皆さんの中に西田哲学が、そしてまた宇野気という場所と講座を企画運営されてきた町の方々への感謝と敬意が脈々と受け継がれているものと思います。「人材育成」ということばは、最早手垢がつくくらい頻繁に使われていることばですが、“自分の足で立って考える人間を作る”という意味で、宇野気の夏期講座は誠に真の「人材育成」の場所でした。
確かに私が覚えているだけでも後に関西大学教授になる井上克人さん、静岡県立大学の平山洋さん、九州大学の横田理博(みちひろ)さんなど、後に日本哲学や西田哲学に業績を残される先生方が、受講生として参加しておられたのを記憶しています。井上さんなどは私より年上ですから、そのような人に講義をしていたのかと思うと、いまでも恥ずかしくなってしまいます。
ともかく、日本の日本哲学研究が本格的に始まる土台の一つが、この宇ノ気の地で育てられていたのだと思います。
Ⅲ.20年間の西田幾多郎に関する書籍数の推移
次に西田幾多郎に関する日本での刊行書籍数の推移を通して「西田幾多郎と西田哲学」への国内外の関心の移り変わりを見ていこうと思います。
ここに挙げたグラフは、哲学館創設の2002年から昨年2021までに「西田幾多郎」「西田哲学」という名前を入れて日本国内で刊行されたおおよその数を集計したものです。このグラフは「国立情報学研究所のCiNii Books」という検索サイトから作成しました。CiNii Booksには日本国内の大学図書館が購入、所蔵している書籍がすべて掲載されています。そのCiNiiで「西田幾多郎」「西田哲学」を検索ワードとして、年度ごとの出版された書籍の概数を数えてみますと、その出版数には3つのピークがあることが解りました。2005年、2011年、2020年です。そして3つのピークの年代は見事に西田の記念日、そして歴史的な出来事、哲学館の活動と対応しています。まず2005年は「西田幾多郎没後年」「終戦」60年で、日本の人口が「増加から減少に転換」 した時です。2011年は『善の研究』刊行100年、そして東日本大震災、原発事故」が起こった年です。そして2020年は「西田幾多郎生誕150年、新型コロナ感染、パンデミック」が発生した年です。記念日に対応して本を出そうとする人が多いのは解りますが、それを同時に歴史的な出来事が、哲学研究の動機やきっかけになることも少なくありません。
西田の次のような言葉は、ひょっとして「哲学」が「歴史的な出来事と無関係ではないということを表しているかもしれません。
「かゝる(歴史的)世界に沈心して、その歴史的課題を把握するのが、真の哲学者の任であらう。」(「場所的論理と宗教的世界観⑩350)
「今日は非常時だといわれる。・・・しかしいたずらに力むばかりが能事でない。非常時なればなる程、我々は一面において落ちついて深く遠く考えねばならぬと思ふ。」(「知識の客観性」⑦340)
また西田は、哲学とは「日常の底を掘る」ことだとも言いますが、そのことがこの表には表れているかも知れません。
Ⅳ-1.2002-09年:哲学館の創設期と全集の刊行
そこで、西田に関する書籍の出版数の3つのピークの前後の西田幾多郎記念哲学館の活動と西田哲学に関する動向を3つに分けて話したいと思います。
まず、哲学館開館の2002年~2009年を「哲学館の創成期」、ないしは[哲学館活動の基盤づくりの時期」といってよいと思います。ないしは、世界的な建築家である安藤忠雄氏が設計した日本で唯一の「哲学」という名前を冠した哲学の博物館として「新哲学館の建築、展示、骨清窟などの観覧、紹介」する時期といってよいと思います。そのために博物館としての哲学館が最初に発行したのが、当時の館の専門員であった大熊玄編集『西田幾多郎の世界』です、実質的には館の紹介本(大型のパンフレット)です。20年経過した現在でも、これは館の最も基本書物として使用されています。
さらに、それまで旧記念哲学館で行われていた「西田幾多郎哲学講座、寸心読書会、夏期哲学講座、寸心忌、学童話し方大会」の事業の継続とともに、全国吟詠大会など新しいイベントが開始されます。また、以前から哲学館で行われてきた講演のいくつかを発信する役割を担ってきたガリ版刷りの『点から線へ』も活字で印刷されるようになり、この3月には71号を刊行しました。
学校教育で西田幾多郎と西田哲学を紹介する教材として、新しい西田幾多郎博士頌徳会編集の『寸心読本』が改変されます。これは小中学校の教員であり、後に西田記念館や哲学館の館長をされた先生方が中ん心となって編集されたもので、現在でも哲学館が「共通道徳」の時間に市内の小中学校で話っする際の事前学習の教材として使用されています。
また、哲学館の創設の次年度2003年2月には「西田哲学会が創始されます。その趣意書を読んでみたいと思います。
・・・・平成十四年六月に西田幾多郎の生まれ故郷・石川県宇ノ気町にオープンした「石川県西田幾多郎記念哲学館」は、こういった関心をもつ人々の出会いの場となり、平成十五年二月現在、すでに入場者が三万六千人を超えました。・・・・
このような状況のもと、私どもは西田哲学についての研究や交流を推進する総合的な組織の必要を痛感し、ここに「西田哲学会」の設立に踏み切りました。
私どもは、本会が狭義の哲学研究者のための学会に留まらず、西田哲学に関心を有するすべての人々に開かれた国内外の交流の場所となり、時代の要請に応じた新しい思索を探りゆく基盤となることを願うものです。(西田哲学会理事会『西田哲学会 趣意書』2003年2月1日)
哲学館創設に関わった研究者が発起人として創設された西田哲学会は「西田哲学に関心を有するすべての人々に開かれた国内外の交流の場所」を目ざしていて、その後の西田研究の展開だけではなく、市民の哲学に関心のある方々、また国外で西田哲学や日本哲学に関心をもつ方々との関係を繋ぐ役割を果たしていると思います。現在、少し会員数は伸び悩んではいますが、哲学思想家個人の名前を冠したとしては現在最も人数の多い学会です。
Ⅳ-2.2002-09年:哲学館の創設期と全集の刊行—研究の広がり―
この時期に日本で刊行された書籍で最も多いのは西田幾多郎の著作の新しい版です。新版全集でも、特に目立つのは新版の『西田幾多郎全集』の刊行で、2002年から2009年にかけて全24巻が刊行されています。この全集を2002年に刊行することになった一つの切っ掛けになっているのは哲学館の創設だと考えられます。最後の24巻に入ったものほとんど新資料で、それに先立って岩波の編集者は哲学館でも資料調査を行っていかれました。旧巻の発刊は西田没後2年を経た1947年で、この時は本巻が12巻、別巻6巻の構成ですが、2刷からは全19巻の構成になり、これが4刷まで受け継がれていきます。
そのほかで多いのは「書肆心水」という出版社の論集の刊行です。これは『西田幾多郎日本論集』『生命論集』などテーマごとに、西田の論文や随筆を集めたもので、内容的には岩波の全集に依拠しています。
そして旧版全集と新版全集の最も大きな相違は旧版の編集者が西田の直弟子たち、いわゆる京都学派の人々だといってもよいのですが、新版の全集はもはや西田やその直弟子たちの影響かにはない人々で、4人の内、京都大学の出身者は藤田正勝さんで、京都の系譜といってよいですが、西田や西田直系の弟子たちとの師弟関係は既にありません。そういう意味ではこの全集編集者は西田の著作を客観的に研究者の立場から編集した人々だということができます。また、この時期に出た西田幾多郎や西田哲学の題名をもつ主要書物の著者も、上田閑照先生、藤田正勝さん以外は京大教授、ないしは京大出身者ではありません。その点でも西田が客観的に研究対象になった時期と言えると思います。
Ⅴ–1.2010-14年:博物館活動の定着と国際的な広がり
次に2011年、2012年をピークとするこの時期は2011年の『善の研究』刊行100年と東北の大震災と東日本大震災、原発事故をきっかけとして西田幾多郎や西田哲学に関する書籍数、そして論文が増えた時期です。この時期には哲学館の活動も定着してきましたが、そのきっかけになった一つは鈴木大拙館の創設だと思います。西田幾多郎と鈴木大拙が切磋琢磨しあった友人であったことはよく知られていますが、哲学館と大拙館も世界では珍しい哲学思想系の博物館として協力し合う関係にあります。例えば西田幾多郎記念哲学館と鈴木大拙館との入館相互優待が行われたり、合同学習会のようなものももっておりますし、展示資料の貸し借りも行われています。
また、2013年にはかほく市の子ども議会で提案があった西田幾多郎の漫画本『西田幾多郎:世界に影響を与えた日本人初の哲学者』が出版されました。また、かほく市内の小中学校で共通道徳という授業で西田幾多郎の生きざまについての授業も行われています。
またこの時期は全集の刊行が完了しますが、それに代わって、海外で西田哲学関連の書籍の刊行や研究論文が増加します。つまり西田研究が国際的に広がっていきます。日本人研究者が国外で西田哲学や京都学派を紹介するケースも増えていきますが、なかでも大橋良介編集の【Die Philosophie der Kyoto – Schule. Texte und Einführung. 】『京都学派の哲学ーテキストと紹介』はドイツ語圏に京都学派、西田哲学を紹介した優れた書籍です書籍ですが、この本は1990年にい難航されたものですが、2011年に増補版が刊行されています。この2つの本を比較して、大橋先生は次のように書いておられます。
時代が替わって、今[2011年]西田哲学に関する欧米言語での研究文献は、すでに300点を超えている。それは、西田哲学は欧米の観点で言う「哲学史」のなかに、すでに一定の場所を得てしまっている、ということを意味している。その事実は「哲学史の概念に変容を迫るという意味すら、帯びている。なぜなら・・・、これまでの哲学史は「西洋哲学の歴史」だったからである。西田本人が自分の哲学について抱いていた自己評価を、歴史世界の方が軽く超えてしまったのである。」(大橋良介『西田哲学 本当の日本はこれからと存じます』ミネルヴァ書房、2013年、322頁。
そのように2011年時点で、西田哲学研究は西洋に研究が広がり、西田哲学は世界哲学、間文化哲学の中に組み入れられていきます。
Ⅴ-2.2010-14年:国際的な広がりの様相
- 西田哲学のビックバン
大橋良介はこうした1990年以降の西田哲学、京都学派に関する文献数の増加を「欧米における西田研究文献における「ビックバン」と呼んで、次のように書いておられます。
「文献目録から、欧米における西田研究文献の「ビックバン」ともいうべき現象が意図せざる仕方で浮き上がってくる。(大橋『西田哲学』306頁)」
そして、具体的「西田哲学と京都学派に関する文献数(2010年まで)」を具体的に上げて、「戦後の30年ないし40年は、欧米の西田研究文献は寥々たるものだった。・・・・西田哲学に関するは1990年までを境に1年に平均2本強から、平均10本強に増加している。増加傾向は1980年代から増加が始まり、年毎に増加傾向が続いている」とも書いておられます。大橋の調査によれば、西洋語の文献数は1990年をはさんで5倍に増加しているのです。
この時期の西田哲学のビックバンは単に文献数だけではなく、使用言語も拡大しています。使用言語は英語が最も多いのですが、1990年以降はフランスやイタリアの増加が多く、中国語やスペイン語の文献も増えています。近年は中国語の書籍の増加が目立ちます。特に東京大学の長さん、独協大学の林さん、中山大学の廖さんなど若手、中堅の中国、台湾人研究者の活躍には目覚ましいものがあります。日本でも確かに2010年時点で大橋がビックバンと呼ぶような状況があるとはいえますが、実はさらに大きなビックバンが起こるのは実はこの直後の2011年、ないしはその直後です。
西田は第一世界大戦後に「世界がレアール」になったと書いたことがありますが、西田の哲学は西田の予想をはるかに超えて膨張し、広がり続けると言えます。
- 飛躍の起点としての2011年-日本語圏、英語圏-
『善の研究』刊行100年においては、日本でも、欧米でも非常に大きなイベントが行われてました。日本では京都大学日本史哲学講座で2010年12月18日⁻19日に「『善の研究』刊行百周年記念国際シンポジウム」が開催され、その成果が藤田正勝編『『善の研究』百年世界から世界へ」として刊行されています。ここには先ほど挙げた中国人三人も映っています。そして哲学館では私が浅見洋「善の研究」刊行一〇〇周年に想うと題して講演をしましたが、それが「点から線へ」61号, 2013年に掲載されています。
英語圏では・Edited by Bret W Davis, Brian Schroder, Jason W. Wirth;Japanese and Continental Philosophy: Conversations with the Kyoto School, Publischet by Indiana University Press, 2011. B. デーヴィス・B. シュローダー・J. バース編『日本と大陸の哲学―京都学派との会話』インディアナ大学出版,2011年.とJames W. Heisig,Thomas P. Kasulis,John C. Maraldo; Japanese Philosophy,A Sourcebook ,Nanzan Library of Asian Religion and Culture, 1911. J. ハイジェッ、T. カスリス、J. マラルド「日本哲学資料集」 アジア宗教と文化の南山ラブラリー、2011年が刊行されています。
これらの著者のJ.ハイジェックは金沢大学が制定している昨年の「鈴木大拙・西田幾多郎記念金沢大学国際賞、第3回受賞」です。
- ENJP(日本哲学のヨーロッパネットワーク)の成立と活動
こうした、日本や欧米における欧米の西田哲学、日本哲学の興隆は実施的には、European Network of Japanese Philosophy(日本哲学のヨーロッパネットワーク)が組織され、英語ドイツ語、フランス語、日本語等、多言語を使用した学術大会が開催され、新型コロナウイルスで延期されたりもしていますが、これまでに6回開催されています。第5回開催は日本の哲学の国際化をリードする南山大学で開催されました。
- EJJP雑誌の刊行と日本国内へのリンク⇒世界哲学、間文化哲学へ
日本哲学のヨーロッパネットワークの学術大会は南山大学から「The European Journal of Japanese Philosophy」(ヨーロッパの日本哲学雑誌)第1巻は日本人研究者 第2巻はヨーロッパの人々が主体になっています。日本哲学の研究には日本人研究者の存在が欠かせないので、「日本哲学のヨーロッパネットワーク」は世界哲学的、間文化的、比較思想的な要素がありますが、これは最近の「世界哲学」「間文化哲学」の流行とも合致しています。西田自身はヨーロッパの哲学の伝統の上に立ちながら、日本人、東洋人として哲学的思考をしたのですから、こうした世界哲学や間文化哲学の萌芽はすでに西田哲学の中にあったといってよいと考えます。
こうした日本哲学を海外に発信し続けている第一人者といってよい南山大学のハイジェック博士は2015年の西田哲学の講演で次のように語っています。
過去三十年間にわたっての西田哲学ブームは、だれも予見できなかったことではないでしょうか。・・・。今日まで世界中で西田哲学についての論文提出を歓迎する学術雑誌の数がこんなに多かったことはありませんでした。・・・こうした活気づいた状態の行方など誰にもわからないとしても、できるだけの多様性や斬新さとともに自己批判を続けながら、我々はその未来を開いたままにする努力をしなければならないと思う次第です。」(第13回西田哲学会年次大会講演 J. ハイジェック「西田哲学の未来へ」 2015年5月26日)
Ⅴ-2.2010-14年:国内の主要著作
ここでは2010年から2014年にかけて、これまでの話に出てきた本以外に、国内の書籍の中で私が主要著作と考える本を挙げておきました。最初の桜井さんの本は私が監修して金沢市が中学生向けに出版した本の改版ですが、この時期はこうした西田幾多郎の哲学に関して概説した本が多いように思います。また、この頃から西田の生命論や宗教論を主題にした本が多いように思いますが、その中では檜垣さんの本は面白いと思います。また、もう一つ小林敏明さんの「西田幾多郎の憂鬱」は西田の評伝的な書籍としては非常に優れていて、おもしろいと思います。
Ⅵ-1.2015-21年:展示リニューアル後の哲学館活動1-全国発信―
北陸新幹線開業(2015年3月14日)に合わせて、初めて展示のリニューアルが2015年3月21日に行われました。開業効果として遠来の来館者が増えることを願って行われたものです。その時の講演者は20世紀に入って日本の西田哲学研究をリードしてきた新版全集の編集者小坂国継、藤田正勝の両氏で、小坂国継先生は「東西の実在観—プラトンと西田幾多郎」、藤田正勝先生は「西田幾多郎の芸術論—その書をめぐって―」と題して話してくださいました。また、没後70周年記念行事として、その年の寸心忌を兼ねて西田の弟子たちの弟子、つまり最後の孫弟子のお一人といえる長谷正當先生にご講演いただきました。
また、没後70年の事業としては初めて県外に出かけて講演会を資料展示が持ちました。西田幾多郎ゆかりの長野県安曇市の信濃教育会生涯学習センターの生涯学習講座と共催の講座です。この時も藤田正勝先生の講演があり、当館から持参した西田の書の紹介も行われました。そしてこれをきっかけにして、これ以降「西田幾多郎生誕の地・ゆかりの地交流事業」と銘打って(山口市、鎌倉女子大学、仙台の東北大学資料館にご協力をいただきながら)講演会や哲学館の紹介を行いました。これらは北國新聞の社説でも取り上げられました。
また、2019年6月には第46回比較思想学会を開催し、パネルディスカッション、国際シンポジウムなどを開催しましたが、この学会開催を機会にかほく市ではコンベンション(大規模な催し)に関する制度を作っていただきました。哲学館の規模で開催できる学会などは限られていますし、宿泊施設のもんだいもありますが、これからもそうした全国的な学会や研修会を開催する機会がもてればと思います。
Ⅵ–2.2015-21年:展示リニューアル後の哲学館活動2―哲学体験の広がり―
2015年は哲学館でリニューアルに伴って最初の研究員、現在の中嶋優太研究員が任用された年です。それに伴って始められた最初の企画は「哲学の入門講座」で、これは近年は哲学カフェとして引き継がれてきており、さらにホワイエでこたつを置いて行う本棚企画、映画上映会と併せて実施されています。哲学カフェは小中高の学校教育や社会教育では哲学対話という名前でも行われており、市内の小中学校における哲学対話はかほく市のユニークな「考える教育」となっていますし、二水高校などのように館で哲学対話を行っている学校もあります。
その他の企画としては禅文化体験会、いくつかのワークショップのような体験型のイベント、大拙館との合同学習会などが行われています。禅文化体験は総持寺のドイツ人僧侶。現在はゲッペルト昭元さんを招いて実施されています。さらに喫茶テオーリアでは好物メニューの考案なども行われてきました。
これらは広く、さまざまな方々に哲学体験をしていただきたいという思いで実施しています。
Ⅵ–3.2015-21年:資料公開と資料研究① ―企画展示と図録作成
そのような体験イベントの広がりの他に、この時期から始められた新しい事柄として、企画展示の開始があります。
2015年3月の展示室リニューアルにともなって、新たに展示室2階に企画展コーナーができ、同時に企画展示が始まりました。最初の企画展示は2015年度の【哲学者の歌】です。その後、企画展は2回実施されるようになり、さらに翌年から企画展の内容を図録として刊行するようになります。そして、この表の2016年からの書籍数には毎年2回発行される哲学館の図録が加わっていきます。
哲学館は西田幾多郎の人物博物館の要素をもっていますが、企画展示は西田幾多郎と関わる保存資料の収集だけではなく、徳手にテーマをもって資料の公開を行うものです。例えば2018年には西田幾多郎にヨーロッパから弟子たちが送ったハガキを「外国からの便り」 といテーマで展示したものですが、その図録はハガキに関する研究の一端です。ですから、 企画展示とその図録は哲学館の資料研究の成果の公開でもあるのです。
今回の企画展示「20年年間の新収蔵展」では次のようなキャッチフレーズが書かれています。「この20年間に新収蔵した資料の中から、選りすぐりの未公開資料を展示します。資料の伝来から幾多郎の人柄がみえる寄贈品や、新資料の発見により判明したエピソードなど、長い歴史がある人物記念館ならではの資料も紹介します。絶筆「私の論理について」、未発表原稿も初公開!この機会をお見逃しなく」
Ⅵ–4.2015-21年:資料公開と資料研究② ―未公開資料の研究と刊行
また、この時期から始められた新しい事柄として、未公開資料の研究と刊行があります。マスコミで、かなり取り上げらえたのでご存じの方も多いとは思いますが、2015年10月末に西田幾多郎の未公開ノート50冊 とメモ類5束が西田幾多郎の孫・西田幾久彦さんの自宅で見つかり、哲学館に寄託されました。ただしこのノートの多くは長い間西田家の倉庫にあったため湿り、カビなどが生えた水損、汚損資料でした。そのため資料修復が必要でした。しかし、ノートは元来西洋の紙、洋紙ですので、和紙とは違って日本では修復技術があまり発達していませんでした。しかし、奈良の国立文化財研究所で東北の大震災で水損資料などが大量に出たのをきっかけに、水損資料を救出するプロジェクトが行われており、その最新の修復技術、真空凍結乾燥処理技術を活用させていただくとともに、その資料修復のプロジェクトに関わったNPOの方々にもご協力していただいて、何とか可能な範囲で修復し、2017年度末(2018年3月)には可能な範囲の修復作業を終えました。
そして2016年からは京大、金大に協力していただいて修復事業を実施しました。この修復事業の最大の成果は西田幾多郎150周年記念として2020年9月23日刊行した『西田幾多郎全集 別巻』で、ここには西田幾多郎が京都大学に赴任した直後の「倫理学講義」と「宗教学講義」が収録されました。哲学館から初めて西田の新しい「テキスト」が刊行されたということになります。
そうした私たちの研究資料化プロジェクトの経過は2017年度末から刊行している『西田幾多郎未公開ノート類研究資料化 報告』に掲載し、報告書もいつの間に昨年度で5冊目になりました。他にも新聞、テレビ、雑誌等でかなりこのプロジェクトは報告されましたが、最近で最も詳細に報告していただいたのは『北國文華』第90号(2022年冬号)の特集「見えてきた西田哲学 よみがえるノート」かと思います。
Ⅴ–5.研究資料化プロジェクトの方法とその展開
そうしたノートを中心とした未公開資料の公表の最大の目的は、西田幾多郎の新しい研究資料を提供することにありますので、私たちはこれを研究資料化事業、ないしは研究資料化プロジェクトとなのっています。
そのプロジェクトの中心になるのは未公開資料の文字お越し=翻刻になりますが、それに関して私たちは人文情報学(デジタル・アーカイブ)という最新の人文学研究の情報学的な方法を使っています。1次翻刻は、未公開資料を写真撮影し、京都大学名誉教授の林晋氏らが開発した翻刻ソフトsmart-GSを使用し、京都大学、金沢大学と業務提携して実施している。また、二次翻刻は私の若手の共同研究者を中心に、一次翻刻をブラッシュアップするとともに、資料中の引用文献等の確認等刊行用の草案を作成しています。
このプロジェクトを通して西田幾多郎の新しい研究資料を提供すると同時に、哲学形成過程に関して新たな知見(哲学形成過程や引用文献)が獲得されてきています。
このプロジェクトの今後の展開ですが、未公開ノート類の一次翻刻は、2022年度末でほぼ完了し、引き続きその後に見いだされた未公開資料の翻刻を行うとともに、二次翻刻は一次翻刻を終えた資料から順次行い、資料価値が高いと思われるものは活字化し、出版の可能性を検討する予定です。
Ⅴ–6.Ⅵ–6.もう一つの研究資料化-データベース、アーカイブー
『別巻』のような活字化、出版できる価値をもった未公開資料以外にも、研究者によっては研究上の資料価値をもっていると考えらます。そのため、哲学館では保存資料をHP上で「収蔵品データベースで公開しています。また、未公開の直筆ノートの全ページを「西田幾多郎ノート類デジタルアーカイブとし公表しています。
②読書ノートにはK・フィッシャー、T・H・グリーン、W・ヴント、E・フッサール、T・国内外の研究者、博物館、美術館に加えて、新聞、インターネット、テレビ等の記事掲載用の資料提供依頼が数多くあります。
Ⅵ-7.2015-2021年:国内の主要著作①
2015年~2021年に出版された国内の主要著作を挙げてみると非常に多いのですが、特に2020年に生誕150年を記して出版された書物が多いのが最大の特徴と思います。
Ⅵ-7.2015-2021年:国内の主要著作②
特に哲学館編の『西田幾多郎全集別巻』と前後して、岩波書店が刊行した書籍が多いと思います。この流れは実は終わっておりませんで、この5月に小坂国継先生が新しい西田論を出されることになっています。
また、この時期に書籍を刊行されたのは20世紀に入ってから西田哲学研究を引っ張ってきた団塊の世代とその前後尾の方々の(下線を引いた々です)の集大成ともいえる出版が目立つということです。団塊の世代というのは1947年−1949年ですが、藤田正勝1949年、小林敏明1948年、鈴木貞美、田中裕1947年、そして岡田勝明、浅見洋1951年、田中久文1952年、氣多雅子さんは1953年ですが早生まれです。とすると現在の生産的な世代では板橋さんや水野さんなど、現在50台前後の名前がありますが、西田哲学研究が今後どのように継承、発展していくのかは不透明なところが多いと思います。
またこの時期はアンソロジー、入門書、評伝、徳手の視点からの研究書が多いように思いますが、今後は現在起こっている新型コロナウイルス、ウクライナをめぐる問題などを見つめながら、西田哲学を論じるような著述が出てくるのではないかと予想しています。
まとめ①:哲学館と西田哲学の20年
西田幾多郎記念哲学館と西田哲学の20年を振り返りながら言えることは、哲学館も西田哲学研究も非常に多様に展開をしたと言えると思いますが、哲学館、あるいは記念館も含めてこのかほくの地での哲学館の活動は西田研究や日本哲学の展開の大きな要素になりつけてきたし、西田哲学の研究もまた哲学館の活動を支えるものであったということができる。
また、哲学館に限定しても、全国的、世界的な哲学研究の動向が哲学館の活動に影響を与えてきただけではなく、かほく市の財政支援、西田ゆかりの人々、哲学館の来館者、そして哲学館周辺の方々の支援活動が哲学館の活動を支えて下さった。
また、哲学の活動が西田哲学研究の基盤になってきたということができる。
まとめ②-1:西田幾多郎の人間像と思索—未完ということ—
そうした哲学館と西田哲学が没後150年をすぎても博物館として活動し、研究し続けられていくその根底にあるのは一つは西田幾多郎という人物とその哲学の魅力にあると考えますが、その魅力は様々に考えられると思いますが、この150年に出版された2つの代表的な書物では「未完という言葉が使われていますが、私もそのように思います。
一つは最も最近の、そして哲学研究者らしい評伝といってよい藤田正勝『人間・西田幾多郎—未完の哲学』岩波書店、2020年10月から引いてみたいと思います。
本書の副題に「未完の哲学」という言葉を用いたが、それは西田が一つの論文を書き上げるとすぐに「次の問題」を見出し、それと徹底して取り組み、自らの思想をさらに発展させようとしてやむことがなかった点を表現したいと思ったからである。・・・・西田の思索そのものが動くものであり、文字通り「流動的」なものであったと言えるのではないかと思う。(336頁)
多くの人が西田の著作の難解さについて語る。実際、西田の思想を理解するのは容易ではない・・・。しかしその難解さの著作の向こう側には、さまざまな問題と格闘し、苦悩する一人の人間、あるいは書や短歌、漢詩などに一種のやすらぎを見出す一人の人間が隠れている。もちろん西田の思想が魅力をもっていることはいうまでもない。しかし、その背後にいる西田もまた、たいへん大きな魅力を有していることを書簡や日記を通してあらためて気づいたのである。
本書では一人の人間としての西田の魅力を描き出すこと、その人間関係や、当時の時代状況・・・・などを入れながらその思想の特徴と魅力を描き出すことを目ざした。・・・・そのように言わば背後から西田の思想にアプローチすることによって、その哲学が新たな輝きを示してくれることに気づいた。論文の一つひとつの語句や文章がより豊かな広がりと、より深い味わいを示してくることを経験した。読者の皆さんもまたそういう仕方でそれぞれに西田哲学という山に登る道を発見し、そこに展開する風景を楽しんでいただきたいと願っている。(382頁)
*この文章には哲学者としての徹底性、流動性の背後にある大きな魅力を有する人間・西田幾多郎が視されています。そして、藤田さんは西田哲学に登り、そこに展開する風景を楽しむといっていますが、私たちが毎年2回の「企画展示」を行う意義の底にあるように思っています。
まとめ②-2:西田幾多郎の人間像と思索—未完ということ—
今一つは私としては、現在のところ西田哲学の全体像を西田の書籍に基づいて、最もよく描き出していると考えている田中久文『西田幾多郎』作品社を読んでみたい。
「悪戦苦闘」し続けた西田がめざしたものは一体何だったのだろうか。それは一言でいえば物事の間にある「壁」と思われるものを次々に突き崩すことであった。「純粋経験」「自覚的一般者「無の場所」「歴史的自然」「行為的直観」「ポイエシス」「作られたものか作るものへ」といった、西田が次々と繰り出してくる概念は、結局はそこをめざすものであった。・・・・しかし、そこに至るのは容易なことではなかった。「壁」は突き崩そうとすればするほど、ますますその厚みを露わにしていくことになる。西田が最後に辿り着いた「絶対矛盾的自己同一」という概念は、逆にそのことをよく表しているともいえる。その意味では、「永遠」に未完成」であるということが西田哲学の本質なのかもしれない。(20頁)
田中久文さんは「西田哲学は永遠に未完成だ」と書いておられますが、それはある意味で西田が本物の哲学者であったということを語っておられるのだと思います。その姿勢は今回展示されている絶筆の中にも描かれています。
哲学は「愛知の学であり」、「知を探求する」ところにありますが、哲学者というのは血をおもめる人であるということです。