ASAMI, Hiroshi Lab. 浅見洋研究室

高橋ふみ

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西田幾多郎の姪 高橋ふみの生涯と思想 おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア

高橋ふみ Fumi Takahashi

高橋ふみ

明治34(1901)年 – 昭和20(1945)年

高橋ふみは、ようやく女性にも最高学府(帝国大学)への門戸が開かれつつあった大正期の日本で東京女子大学で哲学論文を書き、東北帝国大学を卒業した石川県初の女性学士です。伯父・西田幾多郎と同じ哲学研究者としての道を志し、35 歳でドイツへ渡り、ベルリン大学・フライブルク大学でも学びました。学術雑誌での哲学論文の掲載、哲学文献のドイツ語訳などを行い、研究者としてのキャリアを積んでいきますが、病のため道なかばで早世します。女性が学問を続けることへの偏見が根強かった時代に、真の女子高等教育とは何かを問い、提言し続けた「おふみさん」。研究者として、教育者として、自分の道を追及し続けた一人の女性哲学者です。

高橋ふみ略年譜(浅見著「おふみさんに続け!」より)

おふみさんに続け

おふみさんに続け!
浅見洋 著
出版社: ポラーノ出版
発売日: 2017/3/15

原籍:石川県河北郡七塚村字木津ホ12番地
父由太郎、母すみの次女、姉宇良、兄佐五郎、妹たみ、弟7郎、妹とも

明治34年(1901) 0歳 7月26日誕生
明治41年(1908) 7歳 4月七塚尋常高等小学校尋常科入学
大正3年(1914) 13歳 3月七塚尋常高等小学校尋常科卒業
4月石川県立第一高等女学校入学
大正7年(1918) 17歳 3月石川県立第一高等女学校卒業
大正9年(1920) 19歳 4月東京女子大学高等学部入学
大正11年(1922) 21歳 7月「チェホフに就いて」(『東京女子大学 学友会雑誌』第2号)
大正12年(1923) 22歳 3月東京女子大学高等学部卒業
4月東京女子大学大学部人文学科入学
‌11月「近時雑感」(『東京女子大学学友会雑誌』第3号)
大正13年(1924) 23歳 4月東京女子大学大学部哲学科編入学
大正14年(1925) 24歳 3月東京女子大学大学部哲学科卒業
(卒業論文)「プラトンのイデアに就いて―パイドンを中心としたる」
大正15年(1926) 25歳 4月東北帝国大学法文学部文学科入学
昭和4年(1929) 28歳 3月東北帝国大学法文学部文学科(哲学専攻)卒業
4月宮城県立女子師範学校嘱託講師(英語、哲学)
昭和5年(1930) 29歳 8月「Cohenの体系的美學より見たる チェホフの『伯父ワーニャ』」(『小さき芽』)
昭和6年(1931) 30歳 3月宮城県立女子師範学校嘱託講師辞職
4月自由学園教師(国語)、女子経済専門学校講師(倫理学、哲学、論理学)
昭和7年(1932) 31歳 4月『婦人之友』座談会「現代学生の事実と 批判」出席
昭和8年(1933) 32歳 3月『婦人之友』座談会「男女共学実行可能の理論と方法」出席
3月提案者:松本亦太郎、藤田たき、シンポジスト:河合道子、高橋ふみ、大島正徳、菅支那子、槇山榮二「女子高等教育の問題シンポジウム」『岩波講座 教育科学』第18巻所収(高橋ふみの発題は34-39頁)
1‌1月『婦人之友』座談会 「家族会議の夕」 出席。この頃、「女性文学士の会」、「東北帝国大学哲学会」で積極的に活動
昭和9年(1934) 33歳 11月「スピノザに於ける個物の認識に就て」(東北帝国大学文科会編『文化』岩波書店、第1巻5号)
昭和10年(1935) 34歳 3月「一つの釈明」(『東京女子大学同窓会月報』)
昭和11年(1936) 35歳 1月ラジオ講演「女子教育における知識の問題について」(6日)
1月東北帝国大学哲学会渡欧送別会(2日)
3月「女子教育に於ける知識の問題について」(『東京女子大学同窓会月報』)
3月自由学園、経済専門学校辞任
3月箱崎丸で横浜からドイツ留学に出発(29日)
5月ベルリン大学の外国人ドイツ語講座で学び始める(19日より)
7月時事通信在ベルリン特派員としてベルリンオリンピックの記事を書き始める
11月ベルリン大学で哲学並びにドイツ文学専攻
昭和12年(1937) 36歳 3月外国人ドイツ語講座修了(20日)
10月「伯林から」(『東京女子大学同窓会月報』)
昭和13年(1938) 37歳 4月フライブルグ大学哲学専攻並びにドイツ文学専攻で学び始める
6月土居光知「藤村の若葉集」独訳(『日本』第4巻2号)Wakanashu von Toson, Von Professor M. Doi, Übersetzt von Fumi Takahashi, NIPPON, 4, Jahrgang, Heft 2, 1938.
11月この頃から「フライプルグ通信」を『東京女子大学同窓会月報』に連載(昭和16年までに6回連載)
昭和14年(1939) 38歳 6月土居光知「藤村の若菜集」独訳(『日本』第5巻2号)Manyô-shû, Von Professor M. Doi, Übersetzt von Fumi Takahashi, NIPPON, 5, Jahrgang, Heft 2,1939.
8月ドイツ国家試験に合格(べタゴーギツシュディブローム取得)(17日)、西田幾多郎『哲学の根本問題 続編(弁証法的世界)』の「三、形而上学的立場から見た古今東西の文化形態」の独訳を「ブロイセン 科学アカデミー」から刊行(Übersetzt von Dr. F. Takahashi, Durchgesehen von Prof. Dr. O.Kreßler, Die morgenländischen und abendländischen Kultur Formen in alter Zeit vom metaphysischen Standpunkte aus gesehen, Abhandlungen der Preußischen Akademie der Wissenschaften ,Jahrgang 1939, Philosophisch-Historische Klasse, Nr. 19.)
11月結核と戦争激化のため引き揚げ船・靖國丸で帰国
12月東北帝国大学哲学会で帰国報告
昭和15年(1940) 39歳 西田幾多郎『芸術と道徳』の「真善美の合一点」の独訳を仙台の「国際文化協会」から刊行(Die Einheit des Wahren, des Schönen und des Guten, in: Journal of the Sendai lnternational Society, Sendai. von Prof. Dr. Kitaro Nishida,Reprinted from the Jounal of the Sendai International Cultural Society.)
昭和16年(1941) 40歳 5月「続フライブルク通信」を書き始め、 以後5回『東京女子大学同窓会月報』に寄稿
12月西田『日本文化の問題』と「人間的存在」(『哲学論文集第三』所収)をテキストに、郷里の人々に西田哲学を講義
昭和17年(1942) 41歳 6月石川県立第一高等女学校で講演
昭和18年(1943) 42歳 4月東京女子大学講師(「倫理学演習」)
5月東京女子大学創立25周年記念式典にて講演
昭和20年(1945) 44歳 3月末 兄弟七郎、佐五郎に付き添われて再帰郷
6月西田幾多郎、鎌倉にて逝去(7日)
高橋ふみ、木津の実家にて逝去(21日、享年43歳)
東北帝京大学哲学会主催の送別会(中央が留学直前のふみ)

東北帝京大学哲学会主催の送別会(中央が留学直前のふみ)

講演原稿

講演原稿
フライブルク大学の外国人部局から依頼されて行った講演の原稿。内容は日独の家族制度の比較論である。特にヨーロッパの家庭(ファミリーエ)と日本の家(いえ)制度について語り、その上でヨーロッパと日本人の人生観の違いを論じている。

藤村の若菜集

土井光知『藤村の若菜集』のドイツ語訳。
『日本』(1938年第4巻2号)の別刷

浅見 洋 ASAMI, Hiroshi

asami@ishikawa-nu.ac.jp

石川県西田幾多郎記念哲学館長石川県立看護大学特任教授

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