9月1日は関東大震災から100年目にあたります。西田幾多郎記念哲学館の受付には西田幾多郎「大震災の後に」のコピーが置かれています。自由にお取りください!
2023年8月28日
「大震災の後に
今度の大震災に逢いて、我々日本人は反省せねばならぬ多くのものを得たと思う。一には誠実ということが足らなかった。煉瓦の建物であっても、少しも手を抜かないで、誠実に手固く出来ていたものは損害が少なかったそうである。二には有機的統一という考えに乏しかったということである。一方に堅固な建築をしても、すぐその隣に潰れて火の出るようなものがあれば、何の役にも立たない。水道があっても、それがすぐ破壊されてしまうようでは、何の頼りにもならない。三に最も大なる欠点は、深く考えて大なる計画を立てるということがなかった。何事もその日ぐらしである。我国は元来地震国であり、特にこれまでの歴史に徴して、東京は何十年目かに大地震の起る恐が十分ある。それに関らず、かかる恐るべき天変地異に対しても何らの深い考慮がなかった。我国では、毎年々々水が出て、水が出れば汽車が不通となるのが例である。それでも人はこれでならぬというものもない。何でも喉元過ぐれば熱さを忘れるのである。
物質的文明の方ばかりではない。精神的文化の方においてもその通りである。すべてのものを捨て十年二十年、全力を尽して一つの研究に没頭するというような人が少い。のみならず、外国の書物を翻訳したり、紹介したりするにしても、一夜漬のものが多い。そのため夫人の流行を逐うが如く、如何なる思想も深く浸み込むことがない。また偶(たまたま)一つの学問が手に入った人であっても、その隣りに何があるかも知らない。しかのみならず、自分の学問が如何なる基盤の上に立っているかも知らない。何事も目前の応用ということが主となっている。深く大きく根底から考え貫くということが乏しい。
それから私はかかる機会において、人心がもう少し自然というものを好愛するようになったらと思う。自然と文化とは相反するものでない、自然は文化の根である。深い大きな自然を離れた人為的文化は頽廃に終るの外はない。大きな一枚の大理石から彫(きざ)み出されたような文化であってほしい。我々はいつも眼の前にちらつく人為的文化にのみ憧れる必要はない、深く己の奥底に還ってそこから生きて出ればよい。